大阪地方裁判所 昭和60年(ワ)207号 判決 1989年4月12日
原告 三世宗家若柳壽邦こと 竹内正次
右訴訟代理人弁護士 大山良平
同 平井慶一
被告 若柳臣之助こと 水口格
右訴訟代理人弁護士 西川元庸
同 西川悠紀子
主文
一 被告は、日本舞踊に関する芸名として「若柳」なる名称を称し、同名を表札、看板、印刷物、書面に表示する等して使用してはならない。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文第一、二項同旨の判決並びに仮執行の宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
との判決
第二当事者の主張
一 請求原因
A 規約に基づく差止請求
1 (原告の地位と活動)
(一) 原告は、昭和一九年一月以来、日本舞踊若柳流(以下「若柳流」又は「当流」という。)の宗家として同流を統率し舞踊活動を行っているものである。当流は、我が国の伝統的な制度である家元制度をとるものであり、当流における宗家は、右の家元制度における「家元」に相当する(なお、当流では、世襲制により後に宗家となるべきものを家元と称している。)。
(二) 原告は、当流の宗家(「家元」)として、家元制度の構造と特質に由来する以下のような権限を有している。
(1) 家元制度の基本的構造は、(イ)師匠と弟子との主従関係を要素とし、(ロ)この主従関係の連鎖によってヒエラルヒー的派閥集団を構成すること、及び、(ハ)その集団が「家元」の家父長的権力(包括的で不定量的な権力)によって統率されることにある。
(2) そして、家元制度にあっては、当該家元集団に固有の技能、芸能等の型を保存し、技術水準を保持することが、存立の基礎となる。また、当該家元集団の家名にあたる流名(当流でいえば「若柳」)は、集団の統一性、一体性を保持し、かつ他集団の流儀、伝統との相違を識別するものとして、極めて重要な意味を有している。そこで、「家元」は、当該家元集団に固有な技能、芸能等の型を保存し、技術水準を保持して、流名の保全を図るため、「家元」という地位に基づき、家元集団の全構成員に対し必要な処置をとる権力を有している。これが、家元の統制権といわれるものである。そして、「家元」は、この統制権の実効性を保障するため、流名使用認許の権限を一手に掌握し、その統制権に服しない者に対しては破門、退流等の処分を行う処分権を持っている。破門(退流処分を含む。以下同じ。)とは、家元集団からの追放であり、当該家元集団に帰属していたときに認められていた資格、権限の一切を剥奪することを意味する。
(3) そして、右の型の保存、技術水準の保持、流名の保全等は、通常、次のようにして行われる。すなわち、家元制度の下では師匠と弟子との主従関係の成立は、二つの段階に分けられる。その第一は、弟子が単に直接の師匠に師事している段階であり、第二は、技術習熟が試験等により一定の程度に達したと認められて「名取」になる段階である。この「名取」になる段階において、当該弟子は、当該家元集団の最高統率者である「家元」から、家元集団の家名にあたる苗字(当流でいえば「若柳」)を与えられる(貸与される)と同時にその弟子個人を表示する名(例えば「潤之助」)を与えられる(貸与される)。このように「家元」から苗字と名を与えられ(貸与され)「名取」になるということは、当該弟子が当該家元集団において「師匠」になる資格を取得し、その構成員として承認されたことを意味する。そして、「名取」になった者は、以後、「家元」から「名取」に対し与えられた(貸与された)苗字と名(以下、単に「氏名」ともいう。)の下で活動を行えることになるが、他面、当該家元集団に在籍のまま他の流名を名乗ったり、新たに他の流派を創流したりすることは許されなくなり、これに違反した者に対しては、破門等の処分が行われることになる。「家元」から「名取」に対して与えられている(貸与されている)氏名は、その者が当該家元集団の構成員であることの証であり、当該弟子がその集団の構成員としての身分を有し、その立場で活動するときにだけ使用を許されるものである。したがって、「名取」になった者が当該家元集団の構成員としての身分を失ったときは、その理由のいかんを問わず、右氏名は、当然、「家元」に返還されなければならないことになる。このことは、前記家元制度の構造に由来する当然の帰結といえることである。
(三) 原告は、以上のことを基礎とし、これを明文化するため、昭和五三年六月二五日、当日開かれた当流常任理事会の承認決議を経て、次の条項(原文のまま)を含む日本舞踊若柳流規約(以下「規約」という。)を制定した。原告は、その後、右規約を記載した若柳流名取簿(甲第一号証)を全構成員(名取)に配布した。
(1) 当流の名称を日本舞踊若柳流とする。(第一条)
(2) 当流の運営は宗家之を統率する。(第四条)
(3) 当流宗家は世襲と…す。(第七条)
(4) 常任理事は宗家並びに審議会の決定に基き当流運営業務を分担執行に当り常任理事会を構成する。(第一五条)
(5) 前条の免許状(名取免許状等)の製作、発行は宗家のみこれを行う。(第二四条)
(6) 当流の名取とは、第三九条に依り受験合格し宗家又は宗家任命に依り家元が出席の上名取式を行い免状を授与された後にその資格を得たるものとする。但し当流の名取は、当流の固有の名称である若柳という流名を宗家より貸与せられたものであり、如何なる理由があろうとも当流を退流した者は、それ以後若柳の名称を使用する事は出来ない。(第二六条)
(7) 当流師範名取一級並びに師範名取二級はその門人を名取に取立てることが出来る。(第二八条)
(8) 当流師範及名取は古典は勿論いわゆる新舞踊及び民謡舞踊をその門下生に教えること並びに自身門下生共公開上演することは何ら差しつかえはないが、当流在籍のまま他の流名を名乗ったり、如何なる新流派と云えども之を創流することは許されない。万一違反せし時は第三八条を適用する。(第三六条)
(9) 第二四条に違反し、宗家以外の者免許発行等類似行為を為したる場合宗家に於いてその者を除名、破門し、之を公示する。又無届にて改名、変名等の行為をなしたる者も前項に準ずることとする。(第三七条)
(10) 当流門下にして本規約に違背し当流の名誉をいちじるしく毀け又は当流に損害を与えたる者は審議機関に計り情状に依り宗家之を左の通り処分する。
一時流名使用停止、退流処分、除名、破門(第三八条)
(四) 原告は、当流宗家として芸道の統一と水準を保つため、一定水準に達した門弟に対し「若柳」姓を冠した名取名を認許(貸与)して免許状を発行し、試験料、名取料等の対価を得ている。そして、これら試験料、名取料等の収入は、原告又は当流の収益の中心となっている。
2 (被告の立場)
(一) 被告は、昭和二八年五月一〇日、四国宇和島において、若柳流の師範名取であったその母吉潤の取立てにより、若柳流の名取となり、原告から「若柳潤之助」の「氏名」を許された。その後、被告は、昭和二九年頃、原告の内弟子となって修業を経た後、当流の名取であった訴外元若柳三喜こと水口弘子(以下「三喜」という。)と結婚した。
(二) 被告は、その後、若柳流の運営業務を分担執行する常任理事に就任し、同流の運営業務等にも直接参画してきた。
3 (被告の退流)
(一) (被告による慶祥流の創流)
(1) 被告及び三喜(以下両名を合わせて「被告ら」ということがある。)は、昭和五五年頃から、原告には内緒で宮崎市における師範名取、名取を対象とする若柳流の講習会に講師として赴き、講師料を自らの収入としていた。ところが、講師料が高額のため、右講習会への出席者が次第に減る傾向にあったところ、昭和五九年三月頃、講師料の減少分を師範名取が負担すべきだとする被告側と、これに反対する訴外若柳寿詩(以下「寿詩」という。)との間で、講習会の終了後口論になった。
(2) 一方、寿詩は、宮崎市において日本古典舞踊のほか「小波流」の名称で民謡、新舞踊を教えていたものであるところ(これは、被告の口利きにより原告においても了解していた。)、寿詩の同流の弟子である訴外若柳矢寿輔(若柳流の名取でもある。以下「矢寿輔」という。)との間で、矢寿輔の小波流の弟子の帰属をめぐって紛争が生じ、矢寿輔が同流の弟子と共に同流を脱退するという騒ぎが起こった。右紛争は、あくまで小波流の内部紛争であって、被告が口を差し挾むべき事柄では全くなかったにもかかわらず、矢寿輔が寿詩のもとに脱退の話をしに行った際、被告らも同行するなど、被告らは、矢寿輔側に立って右紛争に介入した。
(3) 被告らは、昭和五九年五月三日、原告に秘密裏に、三喜を家元、被告を宗家として、「慶祥流」なる名称の日本舞踊の新流派を創流した。これは、前記のとおり講習会の講師料が減少しつつあった被告らにおいて、新たな収入源を得るとともに、講師料をめぐって対立状態にあった寿詩に対抗する地位を確保するため、当時寿詩と矢寿輔との間に紛争が生じていたことに乗じ、三喜を家元とする新流派を創流して、矢寿輔とその弟子らを名取として、名取料、講師料を得ようとしたものである。
(4) 被告らは、右同日、宮崎グランドホテルにおいて慶祥流の名取式を挙行し、矢寿輔ほか小波流の弟子を名取とし(その中には寿詩の弟子も含まれていた。)、同人らに名取免状(「家元」として「慶祥翁」の記載がある。)、木札等を与え、出席者全員で記念撮影をした。
(5) 被告は、右慶祥流の名取式を挙行するに際し、事前に原告を訪ねたが、そのときは「寿詩が民謡、新舞踊にばかり力を入れ、古典舞踊をしないため、同人門下の師範らが古典を勉強したいと希望しているので、慶祥会の名で古典の勉強会を開く。」旨の話があったのみで、被告が新流派を創流して名取式を挙行するというような話は一切なく、もとより原告がそのことを承諾したことはない。
(二) (査問会に至る経緯)
(1) 原告は、前記のとおり、被告から寿詩が古典舞踊に力を入れていないとの話を聞いた後、同人に事情を問い質したところ、被告と言い分が食い違っていた。そこで、原告は、昭和五九年五月二七日頃、自ら宮崎へ赴き、寿詩やその門弟から更に事情を聴取したところ、被告らが前記のとおり慶祥流の名取式を挙行したことを聞かされた。
(2) 原告は、寿詩らから聞いた被告の行動が事実とすれば、規約第三六条に違反する由々しき問題であると判断し、更に事実関係を調査することにした。すなわち、まず、昭和五九年六月三日、若柳流の常任理事で被告と親しかった訴外若柳竜二郎を被告のもとに行かせて、被告に前記名取式挙行の事実の有無を確認したが、被告はこれを否定した。しかし、同月六日頃、寿詩から前記名取式の際の写真や慶祥流名取免状の写真等の資料が届き、原告にとって、被告らによる慶祥流の名取式挙行の事実は動かし難いものとなった。
(3) そこで、原告は、若柳流の幹部である訴外若柳邦松(以下「邦松」という。)と相談の上、同流の常任理事及び理事で査問会を構成し、同会において、慶祥流名取式の挙行をめぐる被告らと寿詩との紛争について事実関係を明らかにし、被告らの弁明を聞き、円満解決の方策を検討することとした。右査問会は、規約で定められたものではないが、原告において、事実関係の調査、確認及び対処の仕方等について公正妥当を期するために、原告が招集したものである。
(三) (被告に対する退流処分)
(1) 前記の経過を経て、同年六月一二日、京都市伏見区の若柳会館に原告、邦松のほか若柳流の常任理事、理事ら幹部一〇名が出席し、邦松が議長となり、被告ら及び寿詩を呼んで査問会が開催された。
(2) 査問会において、被告らは、慶祥流の名取式の挙行について釈明を求められたが、かたくなにその事実を否定し、明らかに虚偽の弁明に終始し、かえって、「馬鹿馬鹿しい、証拠があるなら見せて欲しい。」と居直る始末であった。
(3) 原告としては、被告らが名取式挙行の事実を認め、もっと素直に対応してくれるものと期待し、穏便に解決したいと考えていたが、右のような虚偽の供述を維持し、無責任極まる態度に出たため、前記のとおり寿詩から送付されていた名取式及び慶祥流免状の写真を示して追及したところ、被告らは、これに弁明することができず、あいまいな返答を繰り返した。
(4) 右のとおり、被告らが無責任な態度に終始したため、査問会としては、話合いによる妥当な解決方法を検討する余地もなく、被告ら及び寿詩を退席させ、被告らに対する処分を協議した。右協議の席では、被告らの行為は規約第三六条に違反するものであり、査問会における態度も無責任であるとして、除名処分にすべきであるとの意見が支配的であった。しかし、原告としては、それまで被告らが原告の直門の弟子であったこともあり、できる限り穏便な処分にしたいと考え、退流処分にしたいとの意見を述べ、査問会の了承を得た。
(5) そして、査問会の議長である邦松から被告らに対し、それぞれ退流処分にする旨伝えた。これに対し、被告らは、何ら異議を述べることなく右処分を受けることを承諾した。
4 (被告による退流後の「若柳」姓の使用)
しかるに、被告は、前記退流処分(以下「本件退流処分」という。)後も、昭和五九年一一月に名を「臣之助」と改めたが、依然として「若柳」姓を名乗り、自ら「家元」となって「若柳臣流」なる流派を創流して、舞踊活動を続けている。
5 (原告の差止請求権)
(一) 家元制度の下では、「家元」は、前記のとおり、家元制度の構造と特質に由来する統制権を有している。これは、長い家元制度の歴史の中で形成されてきた慣習法上の権利というべきものであり、「家元」は、その実効性を保障するため、流名使用許諾の権限を一手に掌握し、その統制に服しない者に対し破門等の処分を行う処分権を有している。そして、当該家元集団を離れた者が、以後、その理由のいかんを問わず、「家元」から貸与されていた氏名を当然に返還しなければならないことも前記のとおりである。何らかの事情で家元集団を離れた者は、以後、当然に流名を名乗ることを禁止され、「家元」は、慣習法上の権利である前記統制権に基づきこれら流名の僭称者に対し、流名の使用差止めを求める権利を有するというべきである。「家元」にこのような権利が認められないとすれば、「家元」によって統率された集団の統一性、同一性を保持することができなくなり、伝統的な家元制度自体が崩壊してしまうことになる。
(二) 原告は、昭和五三年六月二五日、当流の宗家(「家元」)として右のことを明文化した規約を制定し、当流の構成員は全員これに従うことになった。これは、全構成員が宗家(「家元」)である原告に対し、右規約に従って行動をすることを約したことを意味する。
(三) しかるところ、被告は、規約第三六条に違反して慶祥流を創流したことにより、原告から規約第三八条に従い退流処分を受け、若柳流を退流した。したがって、被告は、以後、規約第二六条により「若柳」の名称を使用することはできない。
6 (結論)
よって、原告は被告に対し、規約(契約)に基づき、「若柳」の名称の使用の差止めを求める。
B 不正競争防止法一条一項二号に基づく差止請求
1 (原告の営業)
原告が宗家(「家元」)として行っている前記若柳流の舞踊活動は、文化・芸術活動というべきものであって、純粋に営利のみを目的とするものではないが、一面では経済上の収支計算の上に立って経済秩序の一環として行われている事業活動でもあるから、不正競争防止法一条一項二号にいう営業に当たる。
2 (原告の事業表示)
「若柳流」又は「若柳」の名称は、原告又は原告を宗家(「家元」)とする若柳流の前記営業の事業表示であり、この事業表示は、我が国において、つとに広く認識されている。
3 (被告による類似表示の使用)
被告は、前記のとおり、本件退流処分後も自己の行う舞踊活動において、「若柳」姓を使用し、「若柳臣流」を創流したと称しているが、これらの名称は、原告の事業表示である「若柳流」又は「若柳」の名称と同一であるか又は全体として類似している。
4 (誤認混同及び営業上の利益を害されるおそれ)
被告が、右のように、その舞踊活動において「若柳」姓を名乗り使用することを続ければ、被告が原告を宗家(「家元」)とする若柳流一門の名取若しくは同流から許諾された分派(分家)ではないかとの誤認を世人に与えることになり、このような誤認混同が生じれば、若柳流を統率する原告がその事業上の利益を害されるおそれがある。
5 (結論)
よって、原告は、被告に対し、前記A記載の規約に基づく請求と選択的に、不正競争防止法一条一項二号に基づき「若柳」の名称の使用差止めを求める。
二 請求原因に対する認否
A1(一) 請求原因A1(一)の事実は認めるが、「日本舞踊若柳流」が原告が統率する流派だけを指称する名称であることは否認する。「日本舞踊若柳流」というのは、明治二六年に若柳壽童によって創流され、その後、いくつかの流派に分派したが、壽童の固有の芸風を承継して舞踊活動を行っている複数の流派の総称である。
原告は、そのうちの「三世宗家」又は「三代目宗家」と称する流派(以下「宗家派」という。)の宗家(「家元」)であるが、「日本無踊若柳流」のすべてを主宰する「家元」ではない。
(二) 同(二)のうち、家元制度の下において、流名が他の流派との伝統的な芸風の相違を識別する表示として重要な意味を持っていることは認める。
(三) 同(三)のうち、「若柳流名取名簿」(甲第一号証)に「日本舞踊若柳流規約」として原告主張の条項が記載されていることは認めるが、その余の事実は否認する。
(四) 同(四)の事実は認める。
2(一) 同2(一)の事実は認める。ただし、被告が原告の内弟子になったのは昭和二八年七月である。
(二) 同(二)の事実は否認する。被告が宗家派名簿に常任理事として記載されていたことはあるが、右は、形式的な名だけのものである。宗家派の運営の実態は原告の独断専行によるものであり、被告は、その運営業務には参画していなかった。
3(一) 同3(一)(1)のうち、被告及び三喜が宮崎市における宗家派の講習会に講師として赴いていたことは認めるが、その余の事実は否認する。
同(一)(2)のうち、寿詩が宮崎市において、日本古典舞踊のほか「小波流」の名称で民謡、新舞踊を教えていたこと、寿詩とその小波流の弟子である矢寿輔との間で紛争が生じ、矢寿輔が同人の弟子と共に小波流を脱退するに至ったこと、右脱退の際被告も同席していたことは認めるが、その余は否認する。
同(一)(3)の事実は否認する。
同(一)(4)のうち、昭和五九年五月三日、宮崎グランドホテルにおいて三喜が「家元」として慶祥流の名取式を挙行し、矢寿輔ら小波流を退流した者数名に慶祥流の名取免状を与えたこと、被告を含む出席者で記念撮影をしたことは認めるが、その余は否認する。
同(一)(5)のうち、被告が右慶祥流の名取式の前に原告を訪ねたことは認めるが、その余は否認する。被告は、原告に「慶祥流」という名称で新舞踊の会をすることを話して、了解を得た。
(二) 同(二)(1)の事実は知らない。
同(二)(2)のうち、同年六月三日、被告が宗家派の幹部の訴外若柳竜二郎と会ったことは認めるが、同人が被告のもとに来たこと及び被告が慶祥流の名取式を挙行したことは否認し、その余は知らない。
同(二)(3)のうち、査問会なるものが規約にないものであることは認めるが、その余は否認する。
(三) 同(三)(1)の事実は認める。
同(三)(2)の事実は否認する。
同(三)(3)のうち、査問会の席上原告主張の写真が被告らに示されたことは認めるが、その余は否認する。
同(三)(4)の事実は否認する。
同(三)(5)のうち、査問会の席上、被告らが退流処分に決定した旨通告されたことは認めるが、その余は否認する。
4 同4の事実は認める。
5 同5、6は争う。
B1 請求原因B1の事実は否認する。
2 同2の事実は否認する。
「若柳流」又は「若柳」なる名称は、原告の営業表示として広く認識されていない。原告の営業表示として「若柳流」又は「若柳」の名称が広く認識されているといい得るためには、「若柳流」又は「若柳」の名称によって原告の主宰する「宗家派」を思い浮かべる関係になければならない。ところが、「若柳流」は、戦後、「三世宗家若柳流」、「正派若柳流」、「直派若柳流」等十数派に分派し、これら各流に属する者は、いずれも「若柳」の名称を使用し独立して舞踊活動及び経済活動を行い、社会的にもそれぞれの流派が「若柳流」として認知されている。したがって、「若柳流」又は「若柳」の名称が「宗家派」を示す名称として広く認識されているとは到底いえない。
3 同3のうち、被告が本件退流処分後も「若柳」姓を使用していることは認めるが、その余は否認する。
「若柳流」又は「若柳」なる名称は、若柳壽童の系譜につながる日本舞踊の一流派全体を他の流派である花柳流、藤間流等から区別する識別表示としての意味しかなく、これは、若柳流各派に共通する表示である。若柳流各派間を識別する表示は、「三世宗家若柳流」、「正派若柳流」、「直派若柳流」等であり、これらが各派の営業表示である。そして、被告が創流した流派の名称(表示)は「若柳臣流」であり、原告の主宰する「三世宗家若柳流」と明らかに異なっており、類似しない。
4 同4の事実は否認する。
5 同5は争う。
三 被告の主張
(統制権及び規約について)
日本舞踊界においては、「若柳流」はもちろん、その他の流派でも原告のいう「家元」の統制権が有効に行使された事実はなく、慣習法上の権利といえるような「家元」の統制権など存しない。このことは、以下に述べる「若柳流」内での数多くの分派、分流の事実や原告主宰の「宗家派若柳流」から他分派への移籍、さらには他流派での分派、分流の事実に照らし明らかである。したがって、原告主張の規約もこれを明文化したものとはいえず、右規約を内容とする契約も成立していない。また、仮に、何らかの意味で契約関係が成立するとしても、それは単なる債権的なものであり、差止請求の根拠となるものではない。すなわち
(一) 「若柳流」は、前記のとおり、明治二六年に若柳壽童によって創流されたものであるが、二代目家元若柳吉蔵の没後、別紙若柳流系譜記載のとおり分派、分流が数多く操り返されている。そして、それらのうちには除名処分がなされた場合も多々存在するが、除名された者も引続き「若柳」を名乗っており、これに対し何らかの制裁や法的措置がとられたことはなかった。以下、右の点を詳述する。
(1) 原告は、昭和二五年一〇月一三日付で若柳吉佑(後に壽慶と改名)、吉三郎、吉優、吉三次、東三郎ほかに対し除名を通告している。その理由は、右の者たちが原告の公私にわたる行動に不信を深め、流派の運営を理事制で行おうとしたことにあったようである。除名された者たちは、昭和二六年一月五日「正派若柳流」を創流した。「正派若柳流」は、昭和三八年に「正派若柳会」と名称を改め、会長に若柳壽慶が就任したが、同人は昭和四六年六月に退流し、新たに「直派若柳流」を創流した。
(2) 「直派若柳流」からは、昭和四六年一〇月に若柳壽宏が分家して「分家直派若柳流」を創流し、同年一二月壽慶が死亡した後組織内に混乱が生じ、壽慶の内弟子であった若柳慶が「直派若柳流壽慶会」を創流して分派した。この分派に際しては除名の問題は起こっていない。
(3) 「直派若柳流壽慶会」からは、昭和四八年に若柳汎が「若柳流汎栄会」を創流して分派した。同人は、二代目若柳吉蔵の門下若柳吉翠の弟子で、もともと「宗家派」に属していたが、昭和三五年「正派若柳流」の壽慶門下に入門し、以後、壽慶が「直派若柳流」を創流するとともに「直派若柳流」に移籍し、昭和四六年一二月壽慶死亡後は再び「宗家派」に復帰したものの、昭和四七年には「直派若柳流壽慶会」の創流に参画し、昭和四八年に同会を退流して「若柳流汎栄会」を創流するに至ったものである。しかし、右の変遷の間に除名の問題は起こっていない。
(4) さらに、「正派若柳流」からは「新正派若柳流」が分派しており、その創流者である若柳吉三衛門については除名問題が生じたようである。
(5) 他方、「宗家派」から独立したものとして「若柳流西家元」がある。その家元・若柳吉世は、二代目吉蔵の長女すなわち原告の姉であり、「宗家派」が関東中心であるのに対し、「西家元」は関西を中心に活動していた。この流派は、「宗家派」の分家として独立したもので、除名の問題は全く生じていない。
(6) その後、「若柳流西家元」は、二代目若柳吉世の時代になって、昭和五三年に若柳松紅、紀久、吉世壽、吉古優、弥生、吉孝壽、元勢、吉依政などが民主的な流儀の運営を目指して脱流し、「新若柳流」を創流した。同時期に、「若柳流西家元」から若柳旭甫、松輔が脱流し、「吉松派若柳流」を創流した。右の脱流者に対しては、いずれも除名処分がなされているようである。
(7) 「吉松派若柳流」からは、その後若柳松輔が離脱し、「松派若柳流」を創流している。
(二) また、宗家派においては、従前から宗家派を離脱して他の若柳流の分派に移籍した者が数多くいた。例えば、「直派若柳流」に移籍した者としては、若柳吉寿、吉昭、吉葉、汎などがあり、「正派若柳流」に移籍した者としては、若柳左登詩、吉兵衛、美沙、吉麗があり、「若柳流西家元」に移籍した者としては、若柳吉三郎、松紅、紀久、吉古優などがあり、いずれの派にも籍を置かずに「若柳」の名称を用いている者に若柳真砂がいる。これらの者に対し、原告は何らの処分もしていないし、「若柳」の名称の使用差止めも請求していない。
さらに、昭和五三年には、宗家派の構成員である若柳寿詩が「若柳」の名称を用いつつ「小波流」を創流し、若柳寿詩及び小波貫之という二つの名称を用いて舞踊会を開催しているが、これに対しても、原告は何らの処分もせず、「若柳」の名称の使用差止めも請求していない。
(三) 日本舞踊の他流派においても、「若柳流」に見られるような分派が生じているが、特に名称の使用を禁止するような措置はとられておらず、流名の継続使用が問題になった例はない。他流派の分派の具体例を若干挙げると、次のようなものがある。
(1) 西川流
宗家西川流、正派西川流、西川流(鯉三郎派)に分派している。
(2) 藤間流
宗家藤間流、藤間流、藤間新流、紋三郎派藤間流、藤間流東扇会、新古典派藤間流、別家藤間流、藤間流元美会に分派している。
(3) 山村流
北山村流舞踊会、山村流、東山村流、山村流(ツネ派)、西山村流に分派している。
(4) 西崎流
西崎流、西崎流若葉会、正派西崎流緑樹会、西崎新流に分派している。
(四) 以上のとおり、「若柳流」は多数の分派に分かれているが、宗家派に原告主張の統制権なる慣習法上の権利が存在したならば、原告において、このような分派の発生や宗家派からの他の分派への移籍等に対し、何らかの権利行使をしているはずである。しかるに、原告がそのような権利行使をしてきた事実がないということは、宗家派には原告主張のような家元の慣習法上の統制権が存在しないことを示すものである。また、日本舞踊界の他流派においても、前記のとおり多数の分派があり、家元の統制権が行使されていないのであるから、日本舞踊界一般に原告主張の慣習法上の統制権は存在しないことが明らかである。
(五) 原告は、規約は前記慣習法上の権利を明文化したものであるというが、そのような権利が存在しないことは右のとおりである。
そして、原告は、昭和五三年だけでなく昭和三七年にも「日本舞踊若柳流規約」なる標題の「規約」を作成しているが、その作成に際して、宗家派の構成員の意思を反映させる手続は全くとられておらず、それは、原告が宗家派の構成員を統率するための自らの希望を一方的に文章化し、それを宗家派の名簿に掲載して、右名簿を各構成員に購入させたにすぎないものであった。しかも、その中には、「若柳」の名称の使用を禁止する各項は見当たらない。そして、今回作成された昭和五三年の規約も、昭和三七年の規約の存廃について全く触れないまま、原告がほしいままに作成したもので、宗家派の構成員に対し法的拘束力を生じるような手続は何らとられていない。今回の規約の中には、退流者に対し「若柳」の名称の使用を禁止する旨の条項(第二六条但書)はあるが、これも、原告が一方的に挿入したものにすぎない。
以上、いずれの点からみても、原・被告間に規約の条項を内容とするような契約が成立していないことは明らかである。
(六) また、仮に、原・被告間に規約の条項を内容とする契約が成立したと解する余地があるとしても、右契約からは、債権・債務の関係が発生するのみで、被告が宗家派を離脱して契約関係が終了した後も、原告が「若柳」の名称の使用の差止請求権を有するとする根拠にはならない。
四 被告の抗弁
1 (「若柳」姓使用の根拠)
被告が現在使用している「若柳」姓は、系譜上正当な根拠を有する「吉松派若柳流」に由来するものであり、原告が主宰する「宗家派若柳流」の「若柳」を僭称するものではない。すなわち、
(一) 被告は、昭和五九年六月一二日、原告から退流処分にする旨の通告を受けたが、右処分は何ら理由のない不当なものであった(同処分の不当性については後記2参照。)。もちろん、被告は、右のような不当な処分を受け入れるつもりはなく、承諾しなかったが、その際の原告の理不尽な態度に接し、原告を将来にわたり師と仰ぐことは耐え難いと考え、同日、自らの意思で「宗家派若柳流」を退流した。
そして、被告は、その後、「吉松派若柳流」(以下「吉松派」ともいう。)を主宰する若柳旭甫(以下「旭甫」という。)と相談の結果、吉松派の分家として同派に籍を置くことになり、名も「潤之助」から「臣之助」に改め、同月二八日にその旨の記者会見を行った。
(二) ところで、被告が籍を置くことになった右吉松派の「若柳流」における系譜上の正当性を説明しておくと、次のとおりである。
すなわち、旭甫は、若柳流初代「家元」若柳壽童の最高弟であった若柳吉菊に入門し、壽童から「若柳吉光郎」(後に「吉章郎」と改名)の名を与えられたが、関東大震災を機に、同じく壽童の高弟であり唯一の内弟子であった初代吉三郎に師事することになり、その内弟子となった。初代吉三郎は、壽童からその幼名である「吉松」の名を与えられ、二代目「家元」である初代吉蔵亡き後は「若柳流」の後継者となる予定の者であったが、右吉蔵より早く死亡したため、「吉松」の名は初代吉三郎の妻・若柳光が預かることになった。そして、旭甫は、昭和三七年三月一二日京都南座で行われた「若柳旭甫名披露舞踊会」において、若柳光から「吉松」の名を与えられたものである。
以上のとおり、旭甫は、原告が二代目「家元」である初代吉蔵の後を継いで「宗家派」の三代目「家元」となるよりもはるか以前に、初代「家元」の壽童から「若柳」姓を与えられ、かつ壽童の唯一の内弟子であった初代吉三郎から「吉松」の名を承継しているものであり、その系譜において、初代「家元」壽童に連なる正当な「若柳流」の継承者である。したがって、旭甫が、「若柳」の名称の使用について、原告から許諾を得なければならないような理由は全くない。
(三) 被告は、右のとおり、宗家派を自らの意思で退流した後、若柳流初代や「家元」壽童の系譜に連なる旭甫主宰の「吉松派」に籍を置き、同派の分家として活動することになった。
しかし、吉松派には何十年も旭甫に師事してきた古い弟子がおり、被告を同派の分家として活動させておくと弟子の間にいざこざが起こるおそれがあったため、旭甫は、いったんは、被告を吉松派の分家として受け入れたものの、むしろ被告を「家元」として独立させた方がよいと考えるようになった。
一方、被告も、吉松派分家として舞踊活動を始めようとしていた矢先に、旭甫が原告から、被告の吉松派入籍を妨害するような行動をとられ、被告と共に吉松派としての舞踊活動をしようとすることに執ような妨害を受けるのを目の当たりにして、被告が吉松派分家として舞踊活動を続ければ、旭甫自身に迷惑を及ぼす状況にあると思うようになった。そのような時期に、被告は旭甫から、吉松派から独立して新流派を創流してはどうかとの勧めを受け、これに従うことにした。
このようにして、被告は、昭和五九年一一月、吉松派から独立して「若柳臣流」を創流し、「若柳臣之助」として現在に至るまで同流の舞踊活動を続けているものである。
(四) 以上の次第であるから、被告の現在における「若柳」姓の使用は、正当なものであり、原告は、「吉松派」に対し「若柳」の名称の使用を差し止める権利を有しないのと同様に、被告に対しても「若柳」の名称の使用を差し止める権利を有しない。
2 (権利の濫用)
仮に、原告が被告に対し「若柳」の名称の使用を差し止める権利を有するとしても、原告の権利の行使は、以下に述べるとおり、権利行使に至る動機、権利行使の方法、他の退流者への権利行使との比較等において、社会的相当性を著しく逸脱しており、権利の濫用であって許されない。
(一) (被告の立場)
被告は、昭和二八年五月に、当時宗家派の取立師匠であった母・若柳吉潤の取立てにより宗家派の名取となって以来、退流するまでの三十余年の間、原告の内弟子となり、原告に代わって弟子に稽古をつけ、理事や常任理事の役職に就き、宗家派の発展、維持に努めるとともに、その間「若柳」の名称の下に自らの生計の場を築き、舞踊活動に精進してきたものである。したがって、そのような立場にある被告から「若柳」の名称を奪い取るためには、社会通念に照らし、相当な合理的理由が存在しなければならず、その手続も厳格でなければならないというべきである。
(二) (規約違反の不存在)
原告は、被告が規約第三六条(新流派創流の禁止)に違反したと主張する。
しかし、被告は、宗家派に在籍しながら他の流名を名乗ったり、新流派を創流したことはなく、形式的にも実質的にも第三六条違反の事実は存しない。
(三) (退流処分に至る経過及びその手続)
(1) 原告において査問会なる会合を開くに至るきっかけとなった当初の問題は、寿詩と矢寿輔の間のトラブルである。矢寿輔が被告に訴えたところによれば、寿詩の主催する踊りの会に矢寿輔の弟子が出演することになっているが、これは矢寿輔に無断でなされたことであり、会出演のための稽古も寿詩が直接つけて、矢寿輔には何も連絡がなかったということであった。被告は、寿詩が被告の直弟子であったことから、二人の仲裁に入るべく話合いを持ったが、寿詩の方が話合いを拒否し、そのため矢寿輔がその弟子と共に小波流を退流することになった。
(2) 矢寿輔は、被告の弟子になることを望んだが、同人の宗家派における取立師匠は寿詩であったことから、被告としては、矢寿輔を弟子にすることは宗家派の秩序を乱すことになると考え、右申入れを断り、寿詩にその旨を伝えた。しかるところ、寿詩から矢寿輔を預かって欲しいとの申入れがあったので、被告は矢寿輔を一時預かり、古典舞踊の稽古をつけることにした。
(3) 矢寿輔は、小波流の名称と若柳流の名称を併せ持っていたので、小波流を退流しても被告の稽古を受けることができたが、矢寿輔と共に小波流を退流した弟子たちは、小波流の名称以外に名を持たないため、小波流に代わるべき名称を使用したい旨の希望を被告に訴えた。そこで、被告は、その趣旨を汲んで、原告に相談し、「慶祥流」という名称の新舞踊の会を開く旨の話をし、原告の了解を得た。
(4) 右の経緯で、寿詩と矢寿輔のトラブルは決着がついたかに見えたが、その後、被告は、原告から、小波流の弟子から原告に右トラブルの件で手紙が来たことを聞かされたので、原告に右トラブルの当事者双方から事情を聞くように勧め、矢寿輔にも原告に事情を説明しに行くように指示した。そこで、矢寿輔及びその弟子は、原告に事情を説明すべく、三回にわたり原告の指定した日に出向いたが、その都度原告の都合で面会を断られ、結局事情を聞いてもらえなかった。その頃、原告は独自に寿詩から事情を聴取していたようであるが、そのことは被告には全く伝えられなかった。
(5) 昭和五九年六月三日、被告が名取試験に立ち会うため若柳会館を訪れたところ、幹部会が開催されている様子で、常任理事である被告に連絡がなかったことを不審に思い、同日、兄弟子である若柳竜二郎宅に赴き、その内容を尋ねたところ、被告の宮崎での収入のことや免状のことが話題になり、被告を徹底的に処分しようとの話がなされたことを知った。
(6) その後、原告から被告に電話があり、同月一二日に話合いを持つので若柳会館に来て欲しいとの要請があった。被告は、矢寿輔と寿詩の間のトラブルについて、双方から説明を聞いて話合いを持つ会であると思い、矢寿輔とその弟子を同行して同日同会館に赴いたところ、ガードマンが出向いて来ており、会議の場には宗家派幹部及び芸能評論家が列挙しており、話合いの雰囲気ではない様子であった。そのような中で会議が始められ、議長に邦松、副議長に若柳吉童が選ばれて進行した。その際、被告が、そもそもの発端である寿詩と矢寿輔のトラブルの経過を説明するために発言しようとするや、原告から「その問題は希薄になりました。」と制止された。さらに、同席した寿詩や矢寿輔も同様に事件の発端について説明しようとしたが、同じく制止され、原告から慶祥流の名取免状と名取式の際撮影された写真が示され、誰が名取免状を作成したか追及された。被告としては、事件の経緯についての被告の説明に全く耳を貸そうとしない原告の態度から、正常な話合いを期待できないことを感じ取り、誠意を持って応答する気持ちになれず、原告の追及に応答しなかった。それを機に、列席していた宗家派幹部は退席し、しばらくして再び席に着くや、一方的に「退流処分にすることに決定しました。」と被告に通告した。
(7) 本件退流処分に至る経過は以上のとおりである。
前記のとおり三十余年も続いた被告の「宗家派」における身分を剥奪するためには、事実関係を詳細に調査し、事前に関係当事者にその審議の内容を知らせ、弁明の機会を与えた上、事実関係を確定し、かつ、その事実が宗家派にとっていかなる影響を及ぼすかを吟味し、それに伴う宗家派の被害と、身分剥奪に伴う被告の被害とを十分に比較衡量して判断されるべきものである。
したがって、原告としては、被告が慶祥流宗家の名称を対外的に表示して舞踊活動を行ったことがあるか、同流名にて弟子を取ったことがあるか、同流名を用いて営利活動を行ったことがあるか、同流の名称を用いている者が何名いるか、どのような経過でそのような名称を付するようになったのか、同流を名乗る者がいることによって宗家派にどのような被害が発生しているのか等の事実を調査すべきであったのに、それをしていない。
(8) 一方、実際には、現在に至るまで慶祥流を名乗る者は、矢寿輔を筆頭に小波流を退流した七名のみであり、被告自身は、内外ともに慶祥流の名称を用いて舞踊活動を行ったことは一度もなく、その「宗家」たる地位を標ぼうしたこともなく、それによって利益を受けたこともない。また、宗家派の側でも何ら被害を被った事実はない。
右のような事実関係の下では、原告が被告の宗家派における身分を剥奪し、「若柳」の名称の使用を禁止しなければならない合理的な理由は全く存在しない。
(四) (本件退流処分後の原告の被告に対する措置)
(1) 原告は、被告に対し本件退流処分を通告した後、ただちに芸能新聞、毎日新聞、読売新聞等に「株式会社若柳流」名で「謹告」なる広告を出した。これは、あたかも被告が悪事を働いたかのような印象を対外的に与えることによって、被告の宗家派退流後の活動を妨害することを意図したものである。
(2) 原告は、被告が吉松派に入籍することを察知するや、それまで長期にわたり交際のなかった旭甫に連絡を取り、吉松派を正式に若柳派の一派と認めるような話をもちかけ、その代償として、被告の入籍を認めないことを約束させるという手段を用いて被告の進路を妨害した。
(3) 原告は、被告が踊りの会を主催すべく予約していた毎日ホールに働きかけ、その当日を原告が使用することによって被告の予約をキャンセルさせ、また、舞踊の会に不可欠の地方(じかた)、花屋、顔屋に対しても、被告に協力するのであれば今後宗家派では一切使用しない旨通告して、被告の舞踊活動を妨害した。
(4) 原告は、本件退流処分をめぐる紛争とは何ら関係のない被告の弟子たちに対しても、退流、除籍の通知を出すことにより、被告の孤立化を図ってその舞踊活動を妨害しようとした。
(5) 以上のような原告の一連の行動は、単に被告が「若柳」の名称を使用することを事前に差し止めるという意図の下に行われたものではなく、被告の舞踊活動による生計の途を断つという報復的な意図の下に行われたものであり、その動機及び手段等において、社会的相当性を著しく逸脱するものである。
(五) (他の宗家派退流者等に対する措置との比較)
(1) 既に被告の主張(一)で述べたように、これまでに宗家派を退流した者で、退流後も「若柳」の名称を名乗っている者は多数存在するが、原告は、これらの者に対し、被告に対してとったのと同様の措置を全くとっていない。
(2) また、宗家派に籍を置きながら、他の流名を名乗って舞踊活動を行っている者も他に存在する。
例えば、若柳吉喜海は「山吹流」、若柳吉富士は「三喜流」、若柳須磨は「雅流」、若柳もろえは「もろえ流」等であるが、原告はこれらの者に対し、被告に対してとったのと同様の措置を全くとっていない。
(3) 特に、本件退流処分に至る紛争を作った寿詩は、前記のとおり、以前から「小波流」という流派を創流し、同流名にて弟子を取り、対外的にも舞踊活動を行っており、被告が本件退流処分を受けた後も同様の活動を継続しているにもかかわらず、何らの処分も受けていない。
(4) 以上のとおり、規約違反が明らかな者に対し何らの処分もなさずに、規約違反のない被告に対し、規約違反があるとの想像のみで宗家派構成員の身分を剥奪する処分をなすことは、公平を失し、正当な権利の行使とはいい難い。
(六) 以上るる述べたとおり、原告は、被告に確たる規約違反の事実が存するか否かも確認せず、一方的に被告を退流処分にし、かつ、その後も被告の舞踊活動を妨害し、しかも、他に規約違反の者が存在することを認識しながら、それらの者には「若柳」の名称の使用差止めを請求せず、ただ被告に対してのみ権利を行使しようとするものである。
右のような権利行使が許されるとすれば、宗家派の構成員中に原告の気に入らない者があれば、理由のいかんを問わず、何時でもその者を退流処分にし、かつ、「若柳」の名称の使用を禁止できることを容認する結果となる。そうなると、宗家派に籍を置き、「若柳」の名称の下に生計の基盤をもって舞踊活動を行っている者の権利及び利益を一瞬にして奪うことを許すことになり、被告のような被害者が今後もあとを断たないことになる。
したがって、仮に原告が宗家派退流者に対し、「若柳」の名称の使用を差し止める権利を有するとしても、かかる権利の行使は、宗家派構成員が刑事事件又はこれに類する反社会的行為を行い、宗家派に回復し難い被害を与えることが客観的事実により明らかな場合等に限られるものというべきである。しかるところ、本件は、右のような場合に当たらず、前記の事実関係の下では、原告が被告に対し、「若柳」の名称の使用差止めを請求することは、権利の濫用であって許されない。
五 被告の主張に対する原告の反論
(一) 被告は、日本舞踊界における「家元」の慣習法上の権利(統制権)の存在を否認し、その例証として、若柳流が十数派に分かれている点を主張する。しかし、被告主張の別紙若柳流系譜の記載からも明らかなとおり、原告が主宰する宗家派からの分派、分流は一切ない。したがって、少なくとも、これまで、原告は、「家元」の統制権を適切に行使してきたといえる。被告が主張するような「正派若柳流」あるいは「若柳流西家元」から分裂していった者に対する制裁、法的措置をとるべき主体は、原告ではなく、それぞれ「正派若柳流」又は「若柳流西家元」なのである。慣習法上の権利を行使すべきか否かは、それぞれの「家元」が判断すべき事柄であって、原告の関知しないところである。
(二) 被告は、昭和五三年に制定された「日本舞踊若柳流規約」が昭和三七年作成の同名の旧規約を改正する形式をとっておらず、原告がほしいままに作成したものであると主張するが、現行規約は、被告も常任理事の一員として参加した昭和五三年の常任理事会での審議、承認を経て、旧規約を改正、制定したものである。
六 抗弁に対する認否
1(一) 抗弁1(一)のうち、被告が本件退流処分に異議があったが、原告の理不尽な態度に接して自らの意思で若柳流を退流したとの点、及び、その後、被告が吉松派分家として同派に籍を置いたとの点は否認する。
被告が本件退流処分後、いったん吉松派に帰属したとの事実は、全く実体を伴わないものであり、被告が若柳流退流後も「若柳」の名称を使用するために、意図的に吉松派に接近して、同派に帰属したという形式を仮装したものにすぎない。このことは、以下の事実からも裏付けられる。すなわち、被告と吉松派ないし旭甫とはもともと何ら関係がなく、被告が旭甫の舞踊活動に傾倒していたとか、芸風を慕っていたとかいう事実は全く窺われず、被告が本件退流処分後に神奈川県湯河原まで高齢の旭甫を頼って行かなければならない理由はなかった。被告は、吉松派に分家待遇で帰属したといいながら、その後「若柳臣流」の創流までの間に、帰属を披露するための儀式も行っていないし、旭甫から免状、木札等流派の帰属関係を明らかにするものも一切交付されていない。また、吉松派では旭甫の妻・聖旭が旭甫の後継者として内定しており、被告が吉松派の分家となることは、同派内の秩序を乱すことで、同派幹部の承認を得られる見込みもなかった。被告は、吉松派に帰属したといいながら、わずかな期間で独立しているのであり、吉松派として何ら舞踊活動を行っておらず、極めて不合理である。
(二) 同(二)のうち、旭甫が「若柳」姓を称する系譜上の根拠を有することは否認する。
同人は、もともと「若柳流西家元」に所属していたが、勝手に同派を脱退して、同派から除名処分を受け、自ら家元として吉松派を創流し、「若柳」姓を僭称しているにすぎない。
(三) その余の事実及び主張は争う。
2 同2の主張は争う。
被告は、宗家派を離脱して他の若柳流の分派に移籍した者が多数いると主張するが、被告のように重大な規約違反を行ったものはこれまで他に存在しない。また、原告は、本件退流処分後、被告が「若柳」の名称を使用することを禁止する措置に出たことはあるが、それ以上に被告の舞踊活動を妨害した事実はない。
第三証拠《省略》
理由
――規約に基づく差止請求について――
一 (原告の地位と活動)
1 請求原因A1の(一)(原告の地位)については、「日本舞踊若柳流」が原告が統率する流派だけを指称する名称であるか否かの点を除き、当事者間に争いがない。しかるところ、《証拠省略》によれば、「若柳流」という名称は、元来、明治二六年に若柳壽童によって創流された日本舞踊の一流派を指す名称であったが、その後、昭和二六年に「正派若柳流」(後に「正派若柳会」と改称)、昭和三〇年に「若柳流西家元」がそれぞれ分流してから後は、「若柳流にもいくつかの分派がある。」というときのように、それらの分派を含めた総称として使われることもあること、ただし、そうした中でいわゆる分派したものをいうときには、単に「若柳流」とはいわず「正派若柳流」、「若柳流西家元」等というように何らかの識別表示を付加して指称するのが一般であるが、原告が率いる被告のいう「宗家派」については、「宗家若柳流」といわれることがあるとしても、むしろ、このような識別表示を付加せず、単に「若柳流」とのみいう方が多く、同派自身は、その流名として「若柳流」との名称を使用していることが認められる(以下では、原告が統率する、被告のいう「宗家派」を単に「若柳流」といい、右「宗家派」以外の分派も含む若柳壽童を流祖とする流派全体を「日本舞踊若柳流」という。)。
2 《証拠省略》によれば、同(二)(家元制度の構造と特質に由来する権限)において原告が主張する事実を肯認することができるというのが相当である(ただし、家元制度の下において流名が重要な意味をもっていることについては当事者間に争いがない。)。
3 《証拠省略》によれば、同(三)(規約制定)の事実を認めることができる(ただし、原告主張の名簿にその主張のような内容の規約が記載されていることについては争いがない。)。
4 同(四)(原告の活動)については、当事者間に争いがない。
二 (被告の立場)
1 同2(一)(被告の経歴)については、被告が原告の内弟子になった時期の点を除き、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、その時期は、被告主張のとおり昭和二八年七月であったと認められる。
2 《証拠省略》によれば、同(二)(被告の理事就任)の事実を認めることができる。なお、被告は、被告が宗家派名簿に常任理事として記載されていたことはあるが、右は形式的な名のみのものであったと主張するが、そのようなことを窺わせる証拠はない。
三 (被告の退流)
1 請求原因A3(一)(1)ないし(5)(被告による慶祥流の創流)の事実のうち、被告及び三喜が宮崎市における若柳流(被告のいう宗家派)の講習会に講師として出向いていたこと、寿詩が同市において日本古典舞踊のほか「小波流」の名称で民謡、新舞踊を教えていたこと、寿詩とその小波流の弟子である矢寿輔との間で紛争が生じ、矢寿輔が同人の弟子と共に小波流を脱退するに至ったこと、右脱退の際被告も同席していたこと、昭和五九年五月三日宮崎グランドホテルにおいて、三喜が「家元」として慶祥流の名取式を挙行し、矢寿輔ら小波流を退流した者数名に慶祥流の名取免状を与えたこと、被告を含む出席者で記念撮影をしたこと、被告が右慶祥流の名取式の前に原告を訪ねたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができる。
(一) 被告は、昭和四七年頃から三喜と共に宮崎市へ若柳流の踊りを指導しに行くようになったが、間もなく宮崎市在住の若柳寿詩を門弟にした。
(二) 寿詩は、若柳流に属する名取であり、元は若柳吉兵衛の門弟であったが、三代目若柳吉兵衛が正派若柳流へ移籍した際に若柳流に残り、爾来被告の弟子となったものであるが、そのほか、宮崎市において新舞踊の流派である「小波流」を主宰し、芸名を「小波貴之」と名乗る「家元」でもあった。寿詩が若柳流の名取として活動するほかに小波流を主宰することについては、宮崎市では新舞踊が盛んで古典舞踊だけでは経営が難しいことその他の事情から、原告もこれを了承していた。
(三) ところが、昭和五八年秋頃、寿詩とその小波流の弟子で若柳流の名取でもある若柳矢寿輔との間で、寿詩が主催する舞踊の会への矢寿輔の弟子の出演をめぐってトラブルが生じ、矢寿輔が被告に不満を訴えてきたので、被告らが加わって話合いがもたれたが、結局、矢寿輔とその弟子数名が小波流を退流することになった。
(四) 右のとおり小波流を退流した矢寿輔は、その後、被告を師匠と仰いだが、同じく小波流を退流した矢寿輔の弟子たちは、小波流の芸名しか持っておらず、退流によりこれらの芸名を返上したので、舞踊活動をするのに芸名を有しないことになった。そこで、矢寿輔は、被告に対し、弟子たちのために新たな芸名を与えて欲しい旨要望し、被告も矢寿輔やその弟子を集めて宮崎で新流派を創流することを決意するに至った。
(五) その後、被告は、原告を訪ね、宮崎では寿詩が新舞踊、民謡ばかりに力を入れて古典舞踊を顧みないので、被告において古典舞踊の勉強会を「慶祥会」と名付けて開きたいと申し出た。これに対し、原告の妻から、それは「慶祥流」という新たな流儀を立てることではないのかという疑念が表明されたが、被告は、決してそのような趣旨ではないと答えた。原告は、被告の右申し出に対し、あくまで「慶祥会」という古典舞踊の勉強会を開くという趣旨と理解して、了承した。
(六) 被告らは、昭和五九年五月三日宮崎グランドホテルにおいて、三喜を「慶祥翁」の名で「家元」とし、被告も同席して慶祥流の名取式を挙行し、矢寿輔ほか数名に慶祥流の名取免状及び木札等を与え、出席者の記念撮影も行った。
(七) 同年六月三日宮崎県日南市で行われた日南舞踊協会主催の舞踊会には、訴外慶祥和歌が慶祥流を名乗って参加している。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
2 (査問会に至る経緯)及び(被告に対する退流処分)
請求原因A3(二)(1)ないし(3)(査問会に至る経緯)、同3(三)(1)ないし(5)(被告に対する退流処分)の事実のうち、昭和五九年六月三日被告が若柳流(被告のいう宗家派)幹部の訴外若柳竜二郎と会ったこと、査問会なるものが規約にないこと、同年六月一二日京都市伏見区の若柳会館に邦松のほか若柳流の常任理事、理事ら幹部一〇名が出席し、邦松が議長となり、被告ら及び寿詩を呼んで査問会が開催されたこと、査問会の席上慶祥流の名取式及び慶祥流免状の写真が被告らに示されたこと、査問会の席上被告らが退流処分に決定した旨告知されたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができる。
(一) 昭和五九年五月三日に被告らが慶祥流の名取式を挙行したとの情報は、同月中に原告に伝えられ、さらにその後、名取式の際に撮影された記念写真も寿詩が入手して原告のもとに届けられた。その間、原告は、同月末には熊本への旅行の帰途宮崎に立ち寄り、寿詩に会って直接事情を聴取した。
(二) 原告は、被告が規約に反して新流派を創流したものと理解し、事態を重大視した。原告は、同年六月には被告と親しい若柳流幹部の若柳竜二郎を被告と会わせて話を聞かせたが、被告は慶祥流の名取式挙行の事実を否定した。原告は、若柳流幹部たちに諮って、被告と寿詩の双方を呼んで弁明を聞き処分を決するための査問会を開くことを決めた。
(三) 原告は、同年六月一二日京都市伏見区の若柳会館に被告夫婦及び寿詩を呼び、邦松を始め若柳流の常任理事、理事ら幹部一〇名が査問委員となり、舞踊評論家三名の立会いの上で、査問会を開催した。なお、当日、原告は、万一の混乱に備えて、ガードマンを雇って若柳会館を警備させていた。
(四) 査問会では、まず議長に若柳流長老の邦松を選び、被告に対し、慶祥流の名取式を挙行した事実の有無を問い質した。これに対し、被告は、そもそもの寿詩と矢寿輔との間のトラブルから説明するのでなければ意味がないとの考えから、慶祥流の名取式挙行の事実については、あいまいな返答しかしなかった。そこで、原告は、先に入手していた名取式の際の記念写真を取り出して、被告を追及したが、被告らからは特段の弁明もなされなかった。
(五) そこで、査問委員は被告らの慶祥流創流の事実を動かし難いものと認め、被告ら及び寿詩をいったん退席させて、原告及び立会人を含めて被告らに対する処分を協議した。査問委員の中には被告らを破門にすべきだとの意見もあったが、原告の意向で両名を退流処分とすることに決めた。そして、再び被告ら及び寿詩を席に呼び、邦松から被告らに対し、退流処分に決定した旨を告知した。
(六) 一方、寿詩については、被告から同人が古典舞踊をおろそかにしているとの申し出がなされていたことから、原告は、右査問会の席上寿詩に対し、後日処分を検討して決める旨告げた。結局、寿詩に対しては特に処分はなされず、原告から後日寿詩に対し、できるだけ古典舞踊を勉強すること及び同人の息子に早く地位を譲ることを要望したに止どまった。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
3 被告は、右退流処分の効力を争っているが、一方、本件退流処分に異議があったものの、査問会での原告の理不尽な態度に接し、原告を将来にわたり師と仰ぐことは耐え難いと考え、当日自らの意思で宗家派を退流したとも主張しており、被告本人は、右主張にそう趣旨の供述をしている。そうすると、本件退流処分の効力やその理由はともあれ、被告が昭和五九年六月一二日限り原告が率いる若柳流を退流したこと自体は、動かし難いところというべきである(なお、本件退流処分が正当なものであったか否かは、後記の権利濫用の主張に対する判断において、必要な範囲で検討する。)。
四 (被告による退流後の「若柳」姓の使用)
請求原因4(被告による退流後の「若柳」姓の使用)の事実については、当事者間に争いがない。
五 (原告の差止請求権)
1 原告が日本舞踊の一流派であり伝統的な家元制度をとる若柳流の宗家(「家元」)であること、家元制度が原告主張のような構造と特質を有するものであり、原告が、同流の宗家(「家元」)として、右のような構造と特質に由来する統制権を有し、これにより同流を統率していること、原告が、昭和五三年六月二五日にその統制権の内容等を明文化した原告主張の規約を制定し、その後、これを記載した「若柳流名取名簿」を同流の全構成員(名取)に配布したこと、以上のことは、既に前記一において判示したとおりである。
2 原告は、これを前提としてこのような家元制度の下では、「家元」は、流派を退流した後も流名を名乗る者に対し、慣習法上の権利である統制権に基づきその使用差止めを求める権利を有する旨主張する。
3 しかし、右のように家元制度が我が国の伝統的な制度で社会的に承認された制度であり、その中で家元の統制権といわれる権利が承認されているということと、家元の統制権を法的確信に支持された慣習法上の権利であると認めることとは、別の問題である。家元の統制権を慣習法上の権利と認めるべきか否かを決するためには、まず、家元制度をとる各種集団の慣行の詳細を明らかにしてその法律的構成を考察し、我が国の現行成文法の理論的体系との調和を考えるというような作業が行われなければならないと考えられるが、本件においては、そのような作業を行うに十分な資料はなく、家元の統制権を慣習法上の権利であるとまでたやすく断ずることはできない。
4 しかし、反面、家元の統制権は、我が国の法律制度上、何の意味も持ち得ないものであるかといえば、そうではない。ある家元集団に加わり当該家元集団に固有の技能、芸能等を修得しようとする者は、当然、「家元」に統率される当該家元集団の存在と組織を承認しこれを前提として参加するものである。そして、前示家元制度の構造と特質に照らすと、これに参加した者が、当該家元集団の中で「名取」の資格を取得するということは、少なくとも、その時点において、同人が、当該家元集団の統率者である「家元」から正式に当該家元集団の構成員であることを認められ、当該家元集団の活動分野で活動する際に使用すべき「氏名」を与えられる(貸与される)と同時に、「家元」に対し、当該家元集団の構成員として当該家元の統制権に服することを誓約することを意味するということができる。ここにおいて「家元」と「名取」の間には、右「氏名」の授与(貸与)を介して、直接の関係を生じることになるが、右の関係は、もちろん、「家元」や「名取」の意思にかかわりなく何らかの理由により当然に発生するようなものではない。右両当事者の自由な意思に基づく合意によるものであるから、これを現行の民法その他の法律に照らしてみれば、一種の契約関係であるとみることができる。すなわち、ここにおいて「家元」と「名取」の間には、右「氏名」の授与(貸与)を介して、一種の契約関係を生じ、「名取」は、「家元」から授与(貸与)された「氏名」を、「家元」の統制権の下で、前示一の2(家元制度の構造と特質に由来する権限)において判示したところに従って使用すべきことになると解するのが相当である。
のみならず、本件の場合、若柳流における原告の統制権の内容を明文化したものといえる規約が制定され、それが「若柳流名取名簿」に記載されて全構成員(名取)に配布されたことは前示のとおりである。しかも、その内容は若柳流における家元制度の実態に即したものということができる。
そうだとすると、少くとも、本件の場合、規約の条項が、宗家(「家元」)である原告と被告を含む各名取との間の法律関係(契約関係)を直接規律するものになっていることは否定し難いというべきである。
5 被告は、若柳流や他流派における分派、分流の事実を指摘して日本舞踊界では原告主張の統制権が有効に行使された事実はなく、そのような権利は存在しない旨主張する。
しかるところ、《証拠省略》によれば、「日本舞踊若柳流」においては、二代目「家元」若柳吉蔵の時代までは分派はなかったが、三代目「家元」に原告が就いて以後は、被告が主張するような、分派、分流が行われていること、このうち、正派若柳流及び若柳流西家元は、原告においても公認する立場をとっているものであるが、その他の分派は正派若柳流及び若柳流西家元から更に分派、分流したものであること、その他「日本舞踊若柳流」以外の日本舞踊の流派にも、被告主張のような分派、分流の例があることが認められる。しかし、これら分派、分流の事実は、そのような分派、分流を生じさせるに至った当該流派の「家元」の統制権の強弱やその行使の適、不適を示すものであっても、前示のような家元制度の構造と特質に由来する「家元」の統制権の存在そのものを否定するに十分な根拠になるものではない。「家元」の統制権が実際にはまれにしか行使されなかった、あるいは適切に行使されなかったからといって、ただちにその存在自体を否定するのは相当でない。
また、被告は、若柳流の規約について、それが昭和三七年に制定された規約の改正という形式をとらず、かつ、構成員(名取)の意思を反映させる手続をとらないで、原告の希望を一方的に文章化したものであるから、法的拘束力はない旨主張する。
しかし、家元集団は、元来が、前示のような包括的で不定量な権力を持つ「家元」によって統率されるものであり、これを前提とする限り、その規則、規約等も基本的に右のような権力を持つ「家元」の意思によって決定されるべき性質のものであるということができる。こうした家元集団における規則、規約等の特質を考慮すると、被告主張のような事実は、それだけでただちに「家元」の意思に基づき作成された「規約」の効力を否定する理由になるとは解し難い。「家元」の意思に基づき作成された「規約」は、その内容が著しく構成員(名取)に不利で公序良俗に反するというようなものであれば格別、そうでない限り、原則として前記契約関係を通じて構成員(名取)に対する法的拘束力を持つことになると解するのが相当である。しかるところ、前記規約は、前示のとおり内容的にみて日本舞踊界の家元制度の実態に即したものであって特に不当なものではないということができる上、被告も構成員である常任理事会の承認決議を経て制定されたものであるから、原・被告間においてその法的拘束力を否定しなければならない理由は見いだし難い。被告の主張は採用できない。
さらに、被告は、原・被告間に規約の条項を内容とする契約が成立したとしても、右契約からは、債権・債務の関係が発生するのみで、被告が若柳流を離脱して契約関係が終了した後は、規約に基づいて「若柳」の名称の使用差止めを請求することはできない旨主張する。
しかし、規約は、原・被告間に債権・債務の関係を生じさせるだけのものには違いないが、規約の条項中、退流後には「若柳」の名称を使用できないとの条項(第二六条)は、まさに退流後の不作為債務を定めたものと解することができ、契約当事者間において契約終了後の法律関係の規制をあらかじめ定めることも許されないわけではない。そして、契約関係終了後の法律関係を規制する合意をした者が、契約関係終了後も右合意に拘束されるのは、右合意が何らかの理由により効力を失ったり、その内容が法的拘束力を認めることができないようなものであったときは別として、そうでもない限り、いわば当然のことである。右合意の当事者は、互いにこれを遵守すべきであり、遵守しない他の当事者に対しては、その履行を訴求しうると解するのが相当である。被告の右主張も採用できない。
六 そこで、以下、被告の抗弁について検討する。
1 (「若柳」姓使用の根拠)
(一) 被告は、前記退流後、いったん、旭甫が主宰し系譜上正当な根拠を有する「吉松派若柳流」に籍を置き、さらに旭甫の承諾の下に同派から独立して新流派である「若柳臣流」を創流したものであるから、被告は「若柳」姓を名乗る正当な根拠を有する旨主張する。
(二) しかるところ、《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができる。
(1) 被告が若柳流退流後、いったん、籍を置いたという吉松派の主宰者旭甫は、大正年間に「日本舞踊若柳流」初代家元若柳壽童の高弟であった若柳吉菊に入門して「日本舞踊若柳流」の日本舞踊を習い、関東大震災後は、同じく壽童の高弟であった若柳吉三郎に師事し、「日本舞踊若柳流」の名取として「若柳吉光郎」(後に「吉章郎」と改名)を名乗っていたが、戦後「若柳旭甫」と名を改め、昭和三七年三月に京都南座において「若柳旭甫名披露舞踊会」を開いた。その際、同人は、故吉三郎の妻の若柳光から、「日本舞踊若柳流」の由緒ある名跡である「吉松」(すなわち、この名は、壽童が「日本舞踊若柳流」を創流した当初名乗っていた名であり、後に吉三郎が壽童から譲られ、吉三郎の死後は光が預かっていたものである。)の名を譲られた。旭甫は、昭和三〇年に「日本舞踊若柳流」二代目家元若柳吉蔵の長女吉世が宗家派と分かれて若柳流西家元を名乗った際、西家元派に属したが、昭和五三年に名取試験のことに関して意見を異にし西家元派から脱退してから後は「吉松派若柳流」を名乗って、舞踊活動を行ってきた。
(2) 旭甫と被告とは、かつて昭和五八年頃に報知新聞社主催の舞踊の会である関西華扇会で一緒になり一度話したことがある程度で、それ以外には特にこれというほどの付き合いはなかった。ところが、その際の旭甫の話から男の門弟に恵まれない同人が男性の舞踊家を吉松派に迎えたいとの意向を持っていることを知っていた被告は、昭和五九年六月一二日に若柳流を退流した後、程なく旭甫と接触し、若柳流を退流した経緯を話した。ところが、その説明を聞いた旭甫は、原告が被告の弟子をとろうとしたものと誤解して原告の方が間違っていると判断し、それでは自分の方へ来てはどうかということで、被告に対し、被告を吉松派に分家として迎えてよい旨の意向を示した。しかし、旭甫は、被告を吉松派に迎えることについて、あらかじめ吉松派の幹部に相談していたわけではなく、幹部の了承を取っていたわけでもなかった。旭甫の右意向を知った被告は、早速、同月二二日には神奈川県足柄下郡湯河原町の旭甫のもとに赴き、被告としては、被告自身の移籍料の趣旨で一〇〇万円を旭甫に渡した。
(3) 一方、原告は、被告が旭甫に接触する動きをしていることを察知するや、旭甫に連絡を取り、昭和五九年六月二六日、京都市伏見区の原告方を訪ねてきた旭甫と面談した。そして、原告と旭甫の間で、同日付覚書を取り交わした。右覚書は、原告は旭甫の使用する吉松派若柳流家元の名称を認証同意すること、原告と旭甫の双方は被告らが「若柳流」の名義を使用することを一切不可とすること等を合意するという内容であった。右覚書の作成には、若柳流幹部の邦松及び舞踊評論家の谷村陽介が立ち会い、覚書に立会人として署名した。
(4) ところが、旭甫が右覚書を持ち帰ったところ、吉松派の幹部から、吉松派は改めて原告から右のような認証を受ける立場にはないこと、及び、右覚書の体裁が、若柳流側は原告のほかに立会人が二人署名しているのに対して、吉松派側は旭甫一人という不平等なものであるとの、強い反対意見が出た。そして、同日中に吉松派幹部から原告に対し、改めて対等の人数同士で話し合いたいと電話で申し入れるとともに、旭甫自身も同日付けで右覚書を破棄する旨の書面を原告宛に送付した。
(5) その後、被告は、同月二八日、記者会見を行って、吉松派への移籍を発表した(なお、右記者会見には旭甫は同席しなかった。)。
(6) しかし、その後、被告を吉松派の分家とすることをめぐって同派内部にごたごたが生じ、宗家派との間でも前記のような問題が生じたことから、被告は、旭甫の勧めもあって、新流派を創流することを決意するに至った。
(7) かくして、被告は、同年一一月に名を「若柳潤之助」から「若柳臣之助」と改めるとともに、「若柳臣流」という名称の新流派を創流し、自らその家元になった。
(8) なお、その間、被告が吉松派へ移籍したことに伴う免状の書換え(吉松派の免状の交付)や名取式あるいは分家となる儀式等は一切行われず、被告が吉松派分家を名乗っての舞踊活動をしたこともなかった。
(三) 以上認定の事実とこれまでに判示してきた事実及び弁論の全趣旨に照らすと、旭甫の「日本舞踊若柳流」における経歴は前示のとおりであって、同人は、既に戦前から「日本舞踊若柳流」の名取として活動していたものであること、そして、同人は、戦後、西家元派が分派してから後は西家元派に属し、さらに、昭和五三年の同派脱退後は、自らが「家元」となって、吉松派を名乗っているものであるが、旭甫ないし吉松派自体は、右脱退当時既に若柳流からも公認されていた西家元派から分流したものであるから、若柳流の規約によって規律される関係にはなく、旭甫が名乗る「吉松派若柳流」や「若柳」姓は、少なくとも原告から規約に基づいてその使用差止めを請求されるようなものではないこと、被告と旭甫との間で、被告を吉松派に迎えるという話があり、旭甫自身がその意思を有していたことは認めることができる。
しかし、これまでに判示してきた各事実や弁論の全趣旨に照らし、以下のような点を考慮すると、果たして被告が吉松派に移籍したといえるのかどうか自体についても疑問がないわけではなく、仮に、そういえるとしても、それは、ほとんど形式だけの実体に乏しいものであったといわざるを得ない。すなわち、被告が吉松派の分家になるという話は、被告が若柳流退流後、昭和五九年六月に、旭甫を訪ねて退流の経緯を話したことに始まる。しかし、被告は、退流時、既に若柳流において師範名取で常任理事という要職に就き、同人自身の門弟を数多く抱えていたものであり、他派に移籍するといっても、被告一人だけが気軽に移籍できる立場ではなかった。このことを考慮すると、被告がそれまであまり親しい付き合いのなかった旭甫を訪ねたのは、男性の舞踊家を迎えたいという前記旭甫の意向を知っていて、真実、吉松派に移り、以後、同人の下で活動したいと考えたためというよりも、被告自身、若柳流退流後、「日本舞踊若柳流」のどの分派にも属しないまま従前どおり「若柳」姓を名乗って日本舞踊の活動を続けることについては、原告との関係で問題があると考え、吉松派に移籍することによってその問題を回避しようとしたものであるというのが実際に近いと推認される。被告の吉松派への移籍問題については、もともと問題回避のための手段的要素が感じられるといわざるを得ない。そして、被告の右のような立場からすれば、被告一人が身軽に移籍できるものではなく、だからこそ、旭甫も被告を吉松派の分家として迎える意向を示したものであると考えられる。しかし、分家ともなれば、事の性質上、いかに家元といえども、それ程簡単に一存で決められることではないと考えられ、殊に、被告との話が持ち上がったいきさつは、前示のとおりであって、吉松派の者にとってみれば、いささか唐突の感を免れないものであり、たやすく派内の幹部の了承を得られることではなかったとも考えられる。現に旭甫が幹部に諮ることもなく被告との間で話を進めたために、被告を分家として迎えることについて同派内で問題が生じ、旭甫自身、分家とするつもりでいたが、古い弟子で分家を継ぎたい者が沢山おり、いざこざが生じても困るので、いっそのこと独立的にやったらということで創流を許可した旨供述し、同派の代表役員ないし相談役というべき立場にある山田マサヨは、被告が同派の分家になったことはないとの認識を持っている。また、被告から旭甫に対し渡された一〇〇万円についても、被告自身は、被告一人の移籍料であるというが、その領収証には金員の名目の記載はなく、旭甫は、右金員は被告ら及びその門弟を吉松派に移籍するための免状の書換料で、同人としてはまだいいといったが、被告が納めてきたので、一応、預るつもりで受け取った、人数がはっきりすれば精算するつもりでいた旨証言し、右山田マサヨに至っては、吉松派幹部の立場から、右金員は被告の名刺代わりであり、金額及び被告の弟子数からいって移籍料とは考えられない旨証言している。右のように被告の思惑はともかく、右金員授受の趣旨は関係者間でもあいまいであり、右金員の授受をもって、被告の吉松派への移籍が十分な実体を有することの証左とすることはできない。そして、被告本人の供述によっても、被告が吉松派に移籍した場合には、本来、これに伴う名取式や免状の書換えが行われるべきものであると認められるが、被告が「若柳臣流」を名乗る昭和五九年一一月までの間に、右名取式等は行われていない。被告本人は、いずれこれを行ってもらうことを予定して独立した旨供述するが、結局、その後、今日に至るまで右名取式や免状の書換えが行われた様子はない。しかも、被告の移籍の話が持ち上がってから「若柳臣流」を名乗るまでの間は、わずか五か月足らずで、その間に、被告が吉松派の立場に立って舞踊活動を行ったことは一度もない。以上のような点を考慮すると、被告の吉松派への移籍自体に疑問があるばかりでなく、仮に、これを肯定するとしても、それはほとんど形式だけの実体に乏しいものであったといわざるを得ない。こうした状況の下で、被告が現在使用している「若柳」姓を吉松派に由来するものであると断じることは、いささか実体にそぐわないとの感を免れず、この点に関する被告の抗弁は採用できない。
2 (権利濫用)
(一) 若柳流における(被告の立場)、(被告による慶祥流の創流)、(査問会に至る経緯)及び(被告に対する退流処分)等については前示のような事実を認めることができる。
(二) そして、これらの事実に照らすと、慶祥流の「家元」は被告の妻三喜ではあるが、実質的には、被告が中心となってこれを創流したものと認めるのが相当である。そして、そのことについて原告が承諾していたとも認められないから、被告の行為は、実質的にみる限り、規約第三六条の定める「当流師範及名取は……当流在籍のまま他の流名を名乗ったり、如何なる新流派と云えども之を創流することは許されない。」との条項に抵触するものといわざるを得ない。もっとも、前示慶祥流創流の経過に照らせば、慶祥流の創流は、もともと被告らが講師として赴いていた宮崎における寿詩と矢寿輔との間の紛争に端を発したものであり、寿詩の主宰する小波流を退流した矢寿輔及びその弟子たちに、舞踊活動を続けるために必要な芸名を与えることを目的としたものであるといえる。しかも、少なくとも、本件退流処分の時点では、慶祥流の規模は名取数でも、また活動の地域から見ても極めて限られたものであるし、被告自身が慶祥流の名で自らの公演会等の舞踊活動を行ったという証拠もない。しかし、規約第三六条は、規模等を問わず新流派の創流を禁止しているのであるから、右のような事実を考慮しても、被告の行為が同条に反しないとはいえない。
(三) また、本件退流処分に至る査問会の手続きを見ても、一応被告にも弁解の機会を与えたものということができるし、査問会自体は規約に規定されたものではないが、規約第三八条の定める、規約違反者に対し処分を決める際に宗家が意見を徴する「審議機関」に相当するものと解することができ、本件退流処分が手続面から見て著しく不当なものであったとも断じ難い。もっとも、被告が主張するように、被告が長年若柳流に籍を置き、同流の幹部として活動してきた事実や、前記の慶祥流創流の経過、動機、規模等を勘案すれば、被告を退流処分にすることが相当であったか否かについては議論の余地がないわけではない。しかし、既に述べたように、被告は、本件退流処分がなされたことを契機に自らの意思で若柳流を退流したといい、被告の退流の事実自体は動かし難いのであるから、本件退流処分の相当性も、被告が若柳流退流後に「若柳」姓を名乗ることを原告が規約に基づいて差し止めることが権利濫用に当たるかどうかの観点から判断すれば足りるというべきである。そして、右のような観点から見れば、前記判示の事実関係の下では、原告の被告に対する規約に基づく「若柳」姓の使用差止請求を権利濫用といわせる程に不当性の強いものであったとは認められないというのが相当である。
(四) 次に、本件退流処分後の原告の被告に対する措置を見るに、《証拠省略》によれば、原告は、本件退流処分後、昭和五九年六月から七月にかけて読売新聞、毎日新聞のほか芸能新聞に株式会社若柳流等の名で謹告と題して、被告らが別流派を創流したことが判明したので右両名を退流処分にしたこと及び今後右両名は若柳流と関係ない旨の広告を載せたこと、被告が後に若柳臣流を創流して舞踊活動を行うに際し、原告が地方(じかた)等に対し、被告の舞踊活動に関与した場合は、今後若柳流では使わないかもしれないことを示唆するような言動をとったため、被告の活動に支障を来したことがあったこと、若柳臣流の舞踊会の会場として予約していた毎日ホールから、被告と若柳流とのトラブルが原因で使用を断られたことが認められる。
そして、被告が吉松派の分家になるとの動きがあるのを察知した原告が、旭甫と接触して前記覚書を作成したことは、前示のとおりである。
しかし、これらの事実は、右認定の行為の態様、経過等に照らせば、被告が若柳流を退流した後も、依然として「若柳」姓を名乗って舞踊活動をすることによって規約が破られる事態に対する、原告側のいわば防衛的な行動としてなされたものというのが相当であり、これらの事実も、それだけで、原告の被告に対する規約に基づく差止請求を権利の濫用といわせる程のものとは解し難い。
(五) さらに、被告は、他の若柳流退流者や若柳流に籍を置きながら他の流名を名乗って舞踊活動を行っている者に対する原告の措置と対比して、本件退流処分は公平を失し、正当な権利行使とはいえない旨主張する。
なるほど、被告主張のように、若柳流を退流した後も「若柳」姓を名乗って舞踊活動を行っている者が存在することは、前示のとおりであるが、その大部分は既に原告としてもその存在を承認している正派若柳流や若柳流西家元派へ移籍した者であるか、又はこれらの流派から更に分派した者であり、原告がこれらの者に対して、規約に基づいて「若柳」姓の使用差止めを求めることは、もともと困難なものである。また、寿詩が若柳流に属しながら同時に小波流を主宰していること、同人が特段の処分を受けていないことは、前示のとおりである。しかし、寿詩が小波流を主宰することについては、特殊事情により原告の承諾を得ているものであることも前示のとおりであるから、被告の場合と同様に論じるのは相当ではない。そのほか、《証拠省略》によれば、原告の妻である若柳簾が若柳流公認の新舞踊、民謡の会である「やなぎ会」の会長として「やなぎ簾」の名称を使用していることが認められるが、原告本人尋問の結果によれば、これは、若柳流として経営的に民謡、新舞踊にも力を入れる必要があることから、原告が若柳流幹部に諮って決めたことが認められ、これまた、被告主張の権利濫用の根拠となる事情と見ることはできない。さらに、被告が若柳流に在籍しながら他の流名を名乗って舞踊活動を行っている者として挙示する例についても、原告本人尋問の結果によれば、そのような者が若干名存在することも窺われるが、これらの者については原告から既に注意したり、あるいは原告において事実関係を十分把握していないために処分が決せられていなかったりする場合も存することが認められる。原告が、若柳流に在籍しながら他の流名を名乗って舞踊活動をすることを広く放任しているような事実を認め得る証拠はない。したがって、被告主張のような例が存在するからといって、原告の被告に対する規約に基づく差止請求が権利の濫用になるとは到底いえない。
(六) 以上のとおり、被告主張の事由を個々に検討し、さらにこれを総合考慮してみても、原告の規約に基づく差止請求を権利濫用とまではいえず、被告の右主張は採用できない。
七 結論
以上の次第で、原告から被告に対して規約に基づき「若柳」の名称の使用差止めを求める請求は理由があるから、認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用し、仮執行宣言の申立てについては、その必要がないものと認めて右申立てを却下し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 上野茂 裁判官 小松一雄 青木亮)
<以下省略>